川西 N1K2-J 局地戦闘機 紫電改

紫電改は第二次世界大戦、太平洋戦争で活躍した日本海軍の戦闘機です。紫電改の前に作られた紫電は胴体の中央に主翼を取り付けていたため(これを中 翼配置といいます)視界が不良だったり、主翼に取り付けてある脚が長くなってしまいトラブルに悩まされたのをきっかけに、胴体を再設計して主翼を胴体の下 に配置しました。(これを低翼配置といいます)この設計改良をした機体を紫電改といいます。紫電改は紫電に比べて性能的にはるかに上回った機体になりまし た。紫電改は四国松山基地の343空という部隊に重点的に配備され広島呉の軍港を中心とした西日本の防空に活躍しました。

《データ》
乗員:パイロット1名、機体全幅(主翼幅):11.99m、機体全長(プロペラスピナー先端まで)9.35m、全高(地面から垂直尾翼先端ま で):3.96m、エンジン:誉(ほまれ)21型空冷式エンジン、エンジン出力:高度6,400mで1,700馬力、最大速度:高度6,000mで 611km/h、機体に搭載された武装:20mm機関砲が4門(エンジン出力と速度は紫電改が飛行中最も効率がよい気圧や気温の高度で測定したものです。 この高度は機体によって違ってきます。)

三菱 零式艦上戦闘機 21型

零式艦上戦闘機は日本海軍の主力戦闘機として活躍した戦闘機です。運動性能が抜群で、火力、速力等も当時の艦戦の水準を超え、陸上戦闘機すら凌ぐものでした。

三菱、中島の両社に96艦戦に次ぐ主力艦上戦闘機として、12試艦上戦闘機の計画要求書が交付されたのは昭和12年10月5日のことでした。三菱は 堀越二郎技師を設計主務者として設計を開始しました。堀越技師は96艦戦で培った技術をもとに、重量や抵抗の軽減等、さらに踏み込んだ設計をしました。ま た、恒速プロペラ、引込脚、分割構造、水滴型密閉式風防、流線型落下増槽、クルシー無線帰投方位測定装置などの採用、ESD(超ジュラルミン)の使用、 20mm機関砲の翼内装備等の新しい試みが盛り込まれ、12試艦戦(A6M1)1号機は瑞星13型(離昇出力780馬力)を搭載して完成しました。

初飛行は14年4月に行われ、1号機は社内テスト中に 491km/hを超える速度を記録し良好な成績を収め、その後、プロペラを2翅から3翅へ換装、昇降舵操縦装置の鋼性低下等の小改修を加え、9月に海軍へ 引渡され審査が開始されました。テスト開始直後に、発動機を栄12型(離昇出力940馬力)に換装し尾翼配置を変更した3号機以降の増加試作機をA6M2 と呼ぶことが決定し、審査中に空中分解事故があったものの、素性の良い飛行機であることが認められ、 A6M2は零式1号艦上戦闘機1型として正式採用されました。 (昭和17年に零式艦上戦闘機11型・A6M2aと改称)

A6M1に比べ栄12型装備のA6M2は全長が270mm、 自重が19kg増加しましたが、最高速度は533.4km/hに向上しています。11型は計64機作られ、現地部隊の要請により 正式採用前から中国戦線へ送られました。11型は陸上戦闘機として使われた為、艦戦としての艤装はされてません。また、陸上戦闘機として使われた11型の 翼端には折り畳み機構が無かったので、空母上での取扱を容易にする様に、67号機以降の機体は翼端を50cmずつ折り畳む機構を追加しました。さらにクル シー無線帰投方位測定装置や着艦フック等の艦戦としての艤装を施し、零式1号艦上戦闘機2型(後に零式艦上戦闘機21型・A6M2bと改称)として採用さ れています。

これらの零戦は熟練搭乗員に操られ、各地の戦線で無敵とも思える強さを発揮しました。

《データ》乗員:1名、全長:9.060m、全幅:12.00m、全高:3.570m、最大速度:533.4km/h(4,300m)、エンジン:「栄」12型(離昇出力940hp)、固定武装:7.7mm機銃×2、20mm機関砲×2

中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機

1935年、日本海軍は三菱、中島両社に対して十試艦上攻撃機の名で試作を命じました。海軍の要求は、当時採用されたばかりの九六式艦上攻撃機より も格段に高いもので、試作要求を受けた中島では、海軍機の主要機種の競争でいずれも三菱に敗れていることから、社運をかけて開発に臨みました。数々の新機 軸を盛り込んだ九七式艦上攻撃機は、日本海軍機としては初の全金属製モノコック構造の低翼単葉艦上攻撃機です。画期的な油圧式引き込み主脚を採用、胴体の 幅は、操縦席付近が最大で3座機としては細く絞られています。上方折りたたみ主翼の採用で全幅が短縮され、空母内の格納スペースを小さくできます。プロペ ラは、全金属製2段可変ピッチ3翅プロペラの採用により、離陸、上昇、巡航、高速時、それぞれの状況に応じてエンジン出力を効率よく発揮、性能は格段に向 上しました。1937年11月16日、九七式1号艦上攻撃機(B5N1)として制式に採用、当初予定の「栄」エンジンではなく300hpもパワーが小さい 「光」エンジンの搭載となりましたが、海軍の要求を上回る高性能でした。1938年秋「栄」エンジンの実用化に目処が立ちこれを搭載、1939年12月、 九七式3号艦上攻撃機(B5N2)として制式採用、中島での量産は3号型に切り替えられました。1941年12月、太平洋戦争開戦となる真珠湾攻撃に参加 し、6隻の空母に搭載された九七艦攻は爆弾、魚雷による集中攻撃でアメリカ太平洋艦隊の艦艇に致命傷を与え大戦果をあげました。なかでも雷撃不能とされた 浅深度海面の雷撃を成功させたのは本機の高性能とあいまって特筆に値します。ハワイ作戦以降もソロモン、南西太平洋、インド洋などでも第一航空艦隊の各空 母に搭載された九七艦攻は、零戦、九九艦爆とともに活躍しました。

《データ》
B5N2 乗員:3名、全幅:15.518m、全長:10.3m、全高:3.7m、エンジン:中島「栄」11型(空冷式複列星型14気筒)離昇出 力:1,000hp、最大速度:378km/h(高度3,600m)、武装:7.7mm機銃(胴体後上方)、爆弾:800kg×1 / 250kg×2 / 60kg×6 / 30kg×6、魚雷:800kg×1

三菱 零式艦上戦闘機 52型

零式艦上戦闘機52型は、第2次世界大戦、太平洋戦争で活躍した日本海軍の戦闘機です。高性能な機体として敵に恐れられた零戦21型は、昭和18年 代と新鋭敵戦闘機に対して速度や武器が劣るようになってきました。そこで32型、22型に続いて開発されたのが52型です。速度を向上させるために主翼の 幅を11mに切り詰めて、カウリング(エンジンをおおったカバー)を再設計して推力単排気管(エンジンの排気を利用して若干の推力を得るようにした排気 管)を装備しました。これにより零戦22型の最大速度565km/hより25km速い590km/hを出せるようになりました。零戦52型のシリーズは、 合計約6,000機が生産され太平洋戦争敗戦まで活躍しました。

《データ》乗員:パイロット1名、機体全幅(主翼幅):11m、機体全長(プロペラスピナー先端まで)9.12m、全高(地面から垂直尾翼先端ま で):3.51m、エンジン:栄(さかえ)21型空冷星形エンジン、エンジン出力:高度2,850mで1,100馬力、最大速:590km/h、機体に搭 載された武装:20mm機関砲が2門=機首上面、7.7mmの機銃が2門=主翼先端(エンジン出力は零戦52型が飛行中最も効率がよい気圧や気温の高度で 測定したものです。この高度は機体によって違ってきます。)

三菱 A6M5c 零式艦上戦闘機 52型 丙

緒戦の快進撃を続けた零戦21型も昭和18年になると次々と登場するアメリカ陸海軍の新鋭戦闘機に対して速度、火力の面で劣る様になりました。

そこで、32型、22型に続いて開発されたのが52型で、翼幅を21型、22型の12mから11mに短縮し、カウリングを再設計して推力式単排気管を装備するなど速度の向上を図り、この結果最大速度は565km/hと22型より25km/hの優速となりました。

また、翼内の20mm機銃をベルト給弾式の99式2号4型20mm機銃に換え、急降下制限速度を上げるための主翼外板を厚くした52型甲が生産され ましたが、海軍の要求はさらに続き、機首部分の7.7mm機銃の右側を13mm機銃に強化した52型乙、乙型の両主翼の20mm機銃外側に13mm機銃を 追加した52型丙と、52型シリーズは中島と三菱で約約6,000機が生産され、太平洋戦争が終わるまで戦い続けました。

《データ》零戦52型丙 乗員:1名、全幅:11.00m、全長:9.121m、全高:3.57m、主翼面積:21.3m2、自重:2,155kg、全備重量:3,150kg、エ ンジン:中島 栄21型、離昇出力:1,130hp、最大速度:565km/h(高度6,000m)、武装:13mm機銃×1、20mm機関砲×2+13mm機銃×2

三菱 A6M5c 零式艦上戦闘機 52型 丙

緒戦の快進撃を続けた零戦21型も 昭和18年になると次々と登場するアメリカ陸海軍の 新鋭戦闘機に対して速度、火力の面で劣る様になりました。 そこで、32型、22型に続いて開発されたのが52型で、 翼幅を21型、22型の12mから11mに短縮し、 カウリングを再設計して推力式単排気管を装備するなど 速度の向上を図り、この結果最大速度は565km/hと 22型より25km/hの優速となりました。 また、翼内の20mm機銃をベルト給弾式の 99式2号4型20mm機銃に換え、 急降下制限速度を上げるための主翼外板を厚くした52型甲が 生産されましたが、海軍の要求はさらに続き、 機首部分の7.7mm機銃の右側を13mm機銃に強化した52型乙、 乙型の両主翼の20mm機銃外側に13mm機銃を追加した 52型丙と、52型シリーズは中島と三菱で約約6,000機が 生産され、太平洋戦争が終わるまで戦い続けました。

《データ》零戦52型丙 乗員:1名、全幅:11.00m、全長:9.121m、全高:3.57m、自重:2,155kg、全備重量:3,150kg、エンジン:中島 栄21型、離昇出力:1,130hp、最大速度:565km/h(高度6,000m)、武装:13mm機銃×1 20mm機関砲×2+13mm機銃×2

愛知 D3A1 九九式艦上爆撃機 11型

昭和11年(1936年)、海軍より十一試艦上爆撃機の試作が愛知、中島、三菱の3社に命じられましたが、三菱は途中、開発を断念したため、愛知、中島の 2社で試作機の開発が競われました。 愛知では、全金属製低翼単葉、主翼及び尾翼の平面形は空力的にすぐれた楕円テーパー翼を採用、主脚は実用性を重視して固定脚、主翼下面に急降下制動板を装 備した機体を開発し、試作機が昭和13年(1938年)に初飛行しました。 その後の飛行試験で勝手に横転を始める不意自転、昇降舵の重さなどの問題が生じ改修に手間取りましたがライバルの中島機より速度や操縦性がすぐれたため、 昭和14年(1939年)九九式艦上爆撃機一一型(D3A1)として制式採用され、大戦初期においての高い命中率を誇った爆撃による活躍はめざましいもの がありました。

《データ》乗員:2名、全幅:14.36m、全長:10.185m、全高:3.085m、全備重量:3,650kg、エンジン:金星四四型(離昇最大出力 1,000hp/2,500r.p.m)、最大速度:382km/h、航続距離:1,820km、武装:7.7mm機銃×2(胴体前方固定)、7.7mm 機銃×1(胴体後方旋回)、爆弾:250kg×1、30kg~60kg×2

中島 C6N1 艦上偵察機 彩雲

中島C6N1彩雲は、日本海軍の高速偵察機です。

海軍は、昭和15年に実用機試製計画を立案し、各メーカーに内示していました。中島飛行隊にも何点かの内示があった中に艦上高速偵察機がありました。

N-50と呼ばれたこの計画は要求性能が非常に過酷なものでした。最高速度は350kt(650km/h)、航続距離は最大で2,500海里 (4,630km)というもので大阪からバンコク間の距離ということで、必要なエンジンは2,000馬力級が必要と考えられました。このため中島は、 1,000馬力級のエンジンを胴体内で2基串刺しにしてシャフト、ギアを介して両翼のプロペラを駆動する双発機案を考えました。

しかしちょうどこの頃「誉」と呼ばれた大馬力、省直径のエンジンの試作が順調に進んでいましたので海軍からはN-50計画に「誉」を使えないかとい う指示がきました。「誉」は当時銀河による実用試験が進んでいたエンジンで直径は1,180mm、離昇出力1,830馬力という高性能エンジンでした。

中島は、昭和17年6月に複雑な機構を持つ双発機案をすて「誉」エンジンを搭載した単発機案を進める事を決定し海軍に報告しました。1,830馬力 の「誉」エンジンも高度6,000mに於いては1,600馬力にしかならないという事で、当初の計画値2,000馬力に400馬力分足りないことが分かり 機体形状を工夫してこれを補う事になりました。

これは、まず胴体前面面積を小さくすること、主翼面積を小さくする事があげられました。主翼面積を小さくする事は、着陸速度の増大を招き、空母着艦 が困難になると言う事で、スラットとファウラーフラップを採用し高揚力を得られるようにしました。プロペラは大量の燃料を積んで狭い空母から発進させなけ ればならないため直径3.5mという大直径プロペラを採用しています。

軸新かつ最新の設計で制作された1号機は昭和18年4月に完成し海軍の審査を受けました。昭和19年4月から量産が開始されたこの機体は昭和19年9月に彩雲11型(C6N1)として制式採用が決定しました。

量産型彩雲は最大速度609km/hで試作時の635km/hからは性能が落ちましたが、グラマンF6Fを振り切る事が出来ました。また生産された 量産機の中には速度、航続距離を買われ夜間戦闘機として改造され20mm斜め砲2門か30mm斜め砲1門のどちらかが搭載されており、本土防空にも活躍し ています。

《データ》乗員:3名、全幅:12.50m、全長:11.15m、全高:3.96m、エンジン:中島 誉21型(空冷2重星型18気筒)、離昇出力:1,990馬力、最大速度:609km/h(高度6,100m)、武装:7.9mm旋回機銃×1(後上方)

愛知 D3A1 九九式艦上爆撃機 11型 “ミッドウェー島”

昭和11年(1936年)、海軍より十一試艦上爆撃機の試作が愛知、中島、三菱の3社に命じられましたが、三菱は途中、開発を断念したため、愛知、中島の 2社で試作機の開発が競われました。 愛知では、全金属製低翼単葉、主翼及び尾翼の平面形は空力的にすぐれた楕円テーパー翼を採用、主脚は実用性を重視して固定脚、主翼下面に急降下制動板を装 備した機体を開発し、試作機が昭和13年(1938年)に初飛行しました。 その後の飛行試験で勝手に横転を始める不意自転、昇降舵の重さなどの問題が生じ改修に手間取りましたがライバルの中島機より速度や操縦性がすぐれたため、 昭和14年(1939年)九九式艦上爆撃機一一型(D3A1)として制式採用され、大戦初期においての高い命中率を誇った爆撃による活躍はめざましいもの がありました。

《データ》乗員:2名、全幅:14.36m、全長:10.185m、全高:3.085m、全備重量:3,650kg、エンジン:金星四四型(離昇最大出力 1,000hp/2,500r.p.m)、最大速度:382km/h、航続距離:1,820km、武装:7.7mm機銃×2(胴体前方固定)、7.7mm 機銃×1(胴体後方旋回)、爆弾:250kg×1、30kg~60kg×2

川西 N1K1-Ja 局地戦闘機 紫電 11型 甲

川西が提案した、当時試作を進めていた水上戦闘機”強風”を局地戦闘機にする改造案が海軍に認められ”仮称1号局地戦闘機”として昭和16年12月末、試作が承認されました。
エンジンは中島の新機種”誉”を搭載し、開発開始から1年後の昭和17年12月31日に試作1号機が初飛行し、その後も機名が試製紫電に改称され、ひきつ づき試作機の開発を命じられました。紫電は中翼単葉型式のため主脚が非常に長くなり、複雑な構造の二段式引き込み装置でした。最大の特徴は強風から受け継 いだ自動空戦フラップで、大きな揚力を必要とする空戦時には下がり、反対の状態のときには上がるようになっていました。紫電11型甲(N1K1-Ja)は 昭和19年11月に制式採用。機首の7.7mm機銃2挺は廃止、銃口のみ残されました。

《データ》
乗員:1名、全幅:12.00m、全長:8.885m、全高:4.058m、全備重量:3,900kg、エンジン:誉二一型(離昇出力1,990hp)、最大速度:583km/h(高度5,900m)、武装:20mm機銃×4